日本のタトゥー史
日本のタトゥーの歴史は古く、遺跡の研究から約16000年前の新石器時代(縄文時代)の人たちは顔面にタトゥーをしていたといわれています。
3世紀の九州地方の漁民は水難から身を守るために〝文身(Bunshin)〟といわれる紋様のタトゥーを入れていた記録や、8世紀には男性が目のまわりにアイメイクのタトゥーを行っていた記録も残っています。
また、アルプスの山頂で見つかった5300年前のミイラ〝アイスマン〟と同じく、炎症や痛みを抑えるためにタトゥーを入れていた地域もありました。
ほかにも、北海道と沖縄や奄美諸島では、女性が通過儀礼として手などに紋様のタトゥーを入れる習慣が20世紀初頭まで残っていました。
このように、日本のタトゥーは地域ごとの風習や、時代によって変わる流行の変化ともとに、社会変動の影響を受けながらさまざまに変容を遂げ、今日に至っています。
日本のタトゥーが世界でも類をみない美しい装飾に発展したのは、1603〜1868年まで続いた江戸時代です。
着物のように身体を包みこむように、絵や物語で全身を構成するのが特徴で、男らしさの象徴として主に鳶職人のあいだで〝彫りもの(Horimono)〟と呼ばれて大流行しました。これには歌川国芳をはじめとする浮世絵文化の発展が大きく影響しており、彫りものは「生きた浮世絵」とも呼ばれています。
高い所での作業を専門とする鳶職人は、火事の多発した江戸の町の消火活動を行う〝町火消〟を兼任し、命を落とす危険な場所に勇敢に立ち向かうので、町の人たちからリスペクトされていました。当時、鳶職人の文化は、浮世絵、歌舞伎、大相撲、落語、花柳界と同じく、とても人気があったのです。
この頃の花柳界では、遊女と客のあいだで互いにホクロのような小さな点を入れて愛を誓う〝入れぼくろ〟というタトゥーが流行しました。恋の永遠を願うロマンティックな夢を抱かせてくれるものであり、したたかな遊女にとっては客に再来店をうながす接客術でもあったようです。
一方、1720年(江戸時代中期)には中国の刑罰を参考にして、軽度の盗犯に科される刑罰として〝入墨(Irezumi)〟が採用されました。それまで軽犯罪者には、耳や鼻を削いだり、指切りを行っていましたが、残虐すぎるという理由から、その代わりとして入墨を行うようになったのです。
刑罰の入墨は、額や腕に入れられるのですが、地域によって形は異なりました。江戸(現在の東京)であれば肘下に2本線を入れるのが基本でしたが、おでこに「✖印」を入れるところや「悪」の文字を入れるところ、初犯は「一」、再犯すれば「ノ」を足し、さいごには「犬」の文になるところもありました。
これは、前科を調べやすくすることと、周囲の人に見た目だけで犯罪者だとわかるように警戒させる意味があったのですが、消すことのできない入墨のせいで更生する機会を失い、自暴自棄になる者もあらわれ、周囲が怖がることを逆手にとって入墨を見せて恐喝する人もでてきました。また、ポジティブに逆転の発想をした人は、当時職人のあいだで流行していた〝彫りもの〟をうえから入れることで過去の犯歴を隠したそうです。
江戸時代から現在にいたるまで、職人たちは「自分たちの文化は誇りある〝彫りもの〟であり〝入墨〟と呼ぶはやめてくれ」と主張しています。
日本で軽犯罪者に入墨刑が科されていたのは約300年も前のことですが、21世紀の現代社会においても〝いれずみ〟という言葉には犯罪者という暗いイメージを残しています。
1868年に江戸時代が終わり、その頃の日本は西洋的な近代化政策を推し進める時代の波に翻弄されていきます。
諸外国から野蛮な民族だと思われないよう、1869年に獄門(晒し首)を廃止し、1870年には入墨刑も廃止されました。1880年には町火消も廃止され、以降、消防活動は公務員の仕事になります。
西洋化を推し進める政府は、古い習慣を断ち切るべく1908年に新たに「彫師及び依頼者には30日未満の拘束、20円未満の罰金」を科して禁止しました。しかし実際はほとんど摘発されることはなく黙認され、日本独自の装飾芸術である彫りものは、禁止令のなかであろうと熱心な顧客と彫師の情熱によって途絶えることなく脈々と彫り継がれていったのです。作家・谷川潤一郎による小説『刺青』など優れた文芸作品も誕生し、以降彫りものは〝刺青(Shisei)〟と表記されていきます。
第二次世界大戦(太平洋戦争)が終戦すると、1947年新たに日本国憲法が施行され、翌年には刺青を規制する刑法も廃止されました。現行憲法のもと、日本人の暮らしは大きく変化し、豊かになっていきます。第1回東京オリンピックが開催された1964年に一般人の海外渡航が解禁されると、他国のタトゥーアーティストを訪問し、タトゥーインクやマシーンを買いつけに行く彫師もでてきました。経済の発展とともに日本の刺青は近代化され、手彫りから電気マシーンへと道具も変わり、カラフルで豪華絢爛になっていきます。
60年代には、日本の映画界で「ヤクザ映画」と呼ばれる名作が次々と上映され、人気を博すようになりました。役者の肌に描かれた刺青の絵は、登場人物の設定と物語を視覚的にわかりやすくし、かつドラマチックに演出し、観客を魅了しました。男らしさを象徴する刺青の存在は、低迷していた映画産業を潤し、役者たちはスターとしての地位を確立していきます。この影響で刺青は「男らしさの象徴」から「ヤクザのシンボル」という固定観念を社会に植え付けてしまう結果につながりました。
また、80年代には密輸拳銃をつかった暴力団の抗争事件が激化し、一般市民が負傷したり危険な目に遭う事件が相次いだことから社会問題化し、1992年に暴力団対策法が施行され暴力団を社会から追放しようという動きが活発化します。しかし社会や企業は、面と向かって「暴力団お断り」と掲げると、嫌がらせや逆恨みされるのではないかと恐れ、その代りに「刺青お断り」と表記していくようになります。
その一方で、80〜90年代はファッションや音楽など海外の新しいユースカルチャーが日本にもリアルタイムで入ってくるようになり、若者のライフスタイルは急激に多様化しました。海外旅行中にタトゥーを入れたり、海外のタトゥーを専門にした彫師も登場します。それとは逆に、モトリー・クルーやレニー・クラヴィッツなどの人気スターが来日公演の際に日本の伝統刺青を入れたことから、日本の若者たちは自国の伝統文化を再認識し、新たな価値観を見いだすきっかけになっていきました。
そして職人でも暴力団でもない人たちが、個々の価値観で日本刺青を芸術作品として入れるようになっていきます。日本の伝統刺青は、海外で〝ジャパニーズ・スタイル〟と呼ばれ、新しいタトゥーの1ジャンルとして90年代以降の世界的タトゥーブームに一大旋風を巻き起こしました。
しかし、日本では長い間禁止されていたなごりで「刺青は隠すもの」として認識している人が多くいます。実際に、実物の刺青を見たことのない人が人口の大半をしめており、日本の刺青を「ヤクザのシンボル」としか考えていない戦後生まれの高齢者も多くいます。また、日本の多くの親は、自分の子供にタトゥーを入れて欲しくないと思っています。そして、刺青を見ても一般人なのか暴力団なのか判別できないという理由や、面倒臭いから日本の刺青も海外のタトゥーも、タトゥーに見えるシールやボディペイントも「全部お断り」にしてしまおうという風潮も生まれました。
21世紀の今、わたしたちはスポーツや音楽、芸術などと同様に、タトゥー通して世界中の人たちと温かな文化交流ができることを切に願っています。
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